LOGIN「フフ……アハハハ……クソッ!」笑い出しながら俺は自分が持っていたグラスを投げ付ける。ガシャーン!!!グラスが砕け散り、中に入っていたブランデーが飛び散る。むわっとブランデーの濃い香りが部屋中に充満する。俺は目頭を押さえながら、涙を堪えていた。助けられなかった……。それに気付いた時には、彼女はもうこの世には居なくなっていた。灰になってしまった後だったのだ。天を仰ぐ。あの夜、夢中で抱いた女 ―― 一ノ瀬美緒 ――後から調べさせたところによれば、俺の飲んだ酒の中には強烈な媚薬と、その媚薬の効果を高める為の高濃度のアルコールが検出されている。そのせいで俺の記憶は曖昧になっている。媚薬のせいか、はたまた一ノ瀬美緒が美しかったからなのか。一ノ瀬美緒の訃報を聞き、俺は葬儀に出向いた。俺の知らない間に、俺自身が利用されていた、と気付いた時にはもう遅かった。彼女を失くした事がどうしてここまで自分に喪失感を与えるのか。俺はもうその答えを既に知っている。「征哉様、お客様です」そう声を掛けて来たのは俺の部下、日下部だ。「客?」日下部は何も答えずにただドアを開ける。◇◇◇バスルームの扉を閉め、私は浴室の鏡に映る自分の姿を見た。青白い顔……こけた頬……泣いたせいでむくんだ瞼に、目の下は酷い隈だ。鏡の中の自分に微笑もうとする。けれど笑えない。及川は私に言った。私を海外へ逃がすと。それはきっと私の今の一ノ瀬美緒という名前も、一ノ瀬香織という私の母の子である一ノ瀬家の長女という立場も、全てを捨てて、生き延びろという事……。それは母の願いでもある。目頭が熱くなる。涙で鏡の中の自分が歪む。母は私に生きて欲しい、生き抜いて欲しいと願った。私はそこで歯を食いしばる。涙が落ち、私の視界がクリアになる。私は行けない、行かない。今、ここで私が逃げ出したら、あの人たちが私へ向けた悪意も悪行も、全て無かった事になる。永遠に闇に葬られ、私という可哀想な令嬢が一人、死んだ、それだけになってしまう。高橋翔太は一ノ瀬瑛理香と結婚し、お腹の中の命を育み、その子を一ノ瀬家の後継にするだろう。一ノ瀬華瑛は今まで通り一ノ瀬家で好き勝手に振る舞い、私の父、一ノ瀬恭介を上手く騙し、一ノ瀬家を食い潰すだろう。父はそんな毒婦に騙され続け……そこで少し笑う。いいえ、もしかしたら、
雨は降り続いている。傘が必要な程の雨では無いが。涙雨まさしく骨の髄に染み入るような、そんな雨だ。俺は目の前の墓石を見つめ、一束の花束をその墓石に供える。記憶の中の彼女は俺に微笑んだ事は無い。それなのに彼女の微笑みを想像出来てしまう程に、俺は彼女を知っているような気がしている。無意識に拳を握り締める。その時 ――微かな物音が聞こえた気がして、反射的に顔を上げる。視界の隅で何かが動くのを捉える。少し離れた場所、その場所の墓石の影から清掃員の制服を着た人間が足早に立ち去ろうとしていたところだった。その背中に何故か、惹き付けられる。(あれは……いや、そんな筈は無い……)療養所は爆発し、遺体も発見されている。だからこそ、今日の葬儀なのだ。「征哉様?」部下の日下部の声に、我に返る。「……いや、何でも無い。行こう」そう言って俺はその場を後にする。車に乗り込み、目を閉じる。あの清掃員の後ろ姿……体の線が細く、しなやかな歩き方。……知っている。忘れる筈が無い。理性を失い、求め合ったあの夜に俺はその背中に口付けたのだから。俺の腕の中で小さく震えていた女……あの女の背中に似ている気がする……。◇◇◇屋敷に戻った俺は部屋に籠り、ブランデーを傾ける。「献杯、だな」そう一人で呟く。あの夜の女がまさか、一ノ瀬の長女だったなんて思いもしなかった。一ノ瀬美緒の事は噂では聞いていた。俺の家・九条家と敵対する一ノ瀬家の長女で、聡明な箱入り娘。後妻に入った華瑛という毒婦とその娘の瑛理香が一ノ瀬家を蹂躙している事は知っていたが、そもそも敵対している家の事情など、俺には無関係だ。もっと言えば、内側から瓦解してくれれば、わざわざ俺が手を下す事も無くなり、煩わしい事が一つ消えるだけ。だがパーティーで初めて一ノ瀬美緒を見た瞬間、俺は目を逸らせなくなっていた。これまで数え切れない程の女を見て来た。その内の誰一人として俺の心を揺さぶった事は無い。しかし、彼女は違った。一ノ瀬美緒、彼女だけは違ったのだ。目を奪われる、そんな事が本当にこの世に存在するのだと思い知らされた。一ノ瀬美緒の美しさは俺がそれまで想像して来たものとは違っていた。てっきり過保護に育てられ、箱入りで世間知らずで……か弱く儚い女性だと思っていた。しかし、実際は違った。スラリと伸びた身体に、上品なドレスを
高橋翔太と瑛理香は元々、繋がっていて……一ノ瀬家の家名が欲しかった高橋翔太と、一ノ瀬家の令嬢という地位を自分だけのものにしたかった瑛理香が手を組んでいた……。高橋翔太と一ノ瀬瑛理香は笑いながら、私の墓石を足蹴にして、去って行く。しとしとと降る雨の中、私はまだ衝撃に体を動かせないでいた。不意に私は笑い出す。「フフ……」そう言う事だったのね……箒を握る手に力が入り、指の節が白くなる。私がどうしてあの夜の記憶を失くしたのか……それはあの二人が結託して私を嵌めたからだ。宿敵である九条征哉という男をも巻き込み、私に言い逃れが出来ないように写真を撮り……そして私のお腹の中に宿った子供でさえも、奪い……私をこの世から追い出した……!そしてお父様は最初から全てを知っていた……!そう……そうなのね……お父様もあの女たちとグルだったのね……。私が唯一信じていたお父様……最初から私を騙していたんだ……。三カ月だと言っていたあの言葉も……全て嘘だった……そして私のお腹の中の命まで……!怒りが沸々と湧き上がって来て、叫び出したくなるのを堪える。身が捩れる程の怒り……今まで経験した事が無い程の……! 怒りで体が震える。かつてお嬢様だった私のお母様は、何も持っていなかったお父様の為に、多額の持参金を持って、実家を出て、その多額の持参金をお父様に全て捧げたと聞いた。お母様にとってはそれが愛の形だったのだ。けれどその結果は?お母様がお父様と共に歩み、築いてきたものは、華瑛と瑛理香という女二人に踏み荒らされ、今はもう面影さえ無い。そして ――一ノ瀬家の正当な後継者である筈の私は、そんな女二人に人生を奪われ、壊された。私が心を許し、愛した恋人さえも奪い、そのお腹にその人の命まで宿して。(あぁ、お母様……)私は天を仰ぎ見る。膝の力が抜け、崩れるように泥の上に膝を付く。(お母様……あなたが全てを賭して、愛した男は……こんなにも非情で無情な選択を……)(あなたが何よりも大事だと言った私を、こうして地の底に落として、嘲笑っている……)許せない。こんな事、あってはならない事だ。後悔なんて生温い言葉で終わらせてはいけない。不意に周囲を包む雰囲気がガラッと変わる。その重たい雰囲気に私は思わず顔を上げる。私が埋葬されている場所へ、何人もの黒いスーツの一団が向かって来る。(彼
及川との通話を切る。軽く溜息をつき、私は私の夫の元へ向かう。入るなと命じられている部屋に近付く。中からは嗚咽が聞こえる。私は静かに扉を開け、中に入る。部屋に入って来た私を見て、私の夫は視線を伏せる。私は夫に近付き、その肩を抱く。「火事は事故だったのよ……」慈愛を込めた声を装い、そう言う。「あの子の葬儀はもう手配しました。だから安心して、あなた」肩を抱いた私の手を握る、私の夫は泣き崩れている。「すまん……」夫はそう呟くように言って、肩を揺らす。私はそんな可哀想な夫を見つめながら、ほんの少し微笑む。部屋を出て、扉を閉めて。笑みが零れるのを我慢出来なかった。誰にも聞こえない声で呟く。「次はあなたよ」そう言って私は鼻歌を歌い、その場を後にする。◇◇◇郊外の墓地、今日もあの日と同じ雨。でもあの日と違うのは今日の雨は涙雨だという事。私が一ノ瀬家を追い出されたあの日の、雷鳴が響く土砂降りの雨のとは違い、今日の雨はしとしとと降っている。私は墓地の清掃員の制服を着て、大きなマスクをつけ、俯き加減で掃除する。誰も掃除をしている人間など、気にしない。少し離れた場所で、家族のみが集まり、私の葬儀が簡易的に執り行われ、私の遺体が墓地の下に埋葬される。私は参列している少ない参列者の中に、見つける。私の父―― 一ノ瀬恭介 ――お父様は少ない参列者の最前列、墓石に一番近い場所に立っていた。たった一日だ。たった一日会わなかっただけなのに、お父様の肩は落ち、背中も丸まっている。まるで一気に年をとったように見える。埋葬が終わると、華瑛さんがお父様を支え、その場を後にする。雨の中、私は箒を握り締め“自身の葬儀”を見つめ、何も出来なかった。お父様に伝えなければいけないのに。お父様のすぐ横に居る、その女の策略を。(今はダメだわ……)(このタイミングで出て行くのはダメよ……華瑛さんが付いているんだもの……)(待たないと……お父様が一人になるタイミングを……)雨が帽子のつばを伝って滴り落ち、私の箒を持っている手に落ちる。その場に残ったのは、義妹の瑛理香と婚約者だった高橋翔太だ。離れているせいで表情は分からない。二人は私の墓石を見つめ、何かを話しているようだった。(一体、何を話しているの……?)それは一種の好奇心のようなものだったかもしれないし、もし
目の前で。オレンジの炎が燃え盛っている。夜空に映える炎のオレンジ色はその触手を天に伸ばし、更に炎自身が燃えるものを探している。炎の触手の先からは黒煙が立ち上り、夜空の星を覆い隠す。私を閉じ込めて、絶望の淵へ追いやった療養所という“檻”は、今はもう燃えながら歪み、崩れ落ち、灰と化して行く。「お嬢様」及川が私の横に立つ。「今この瞬間からお嬢様は灰になりました。もう一ノ瀬家の令嬢ではございません」全ては燃えて灰になった……私と一ノ瀬家の縁も、そして未練も全て燃えて灰になったのだ。思い出されるのは幼い頃の記憶――お母様が生きていた頃は……私もお父様に確実に愛されていた。お母様とお父様に囲まれて、とても幸せな日々を過ごしていたのだ。そしてそれはずっと続くものだと、私は純真無垢にもそう信じていたし、それが当たり前だった。でも、お母様は亡くなってしまった。お母様が亡くなった時の事は今でも良く覚えている。お母様が息を引き取るその瞬間まで、お父様はずっとお母様の名を呼び続けていた。大事そうにその手を握って。私は部屋の中に入る事が出来なかった……怖かったのだ。お母様が死ぬなんて、有り得ないと思っていた。ずっとずっと私は優しいお母様とお父様に囲まれて生きて行くのだと、そう信じて疑わなかったから。だから私はずっと部屋には入れず、ただただその部屋のドアの前で泣いていた。お父様はそんな私を見つけ、私を抱き上げると、お母様の手を握ったその手で、その腕で私をギュッと抱き締めてくれた。「美緒、私にはお前が居る……そう、お前が居るんだ……」私はそんなお父様の肩に縋って泣き、その言葉を信じた。でもお母様の葬儀が終わるか、終わらないかのうちに華瑛さんと瑛理香がこの家に踏み込んで来た。その日から全てが変わってしまった。ズカズカと無遠慮に踏み込んで来た華瑛さんは私を見て微笑んだ。けれど、その微笑みは冷たかった。華瑛さんはお母様の部屋を奪い、服を奪い、装飾品を奪い……いつの間にかお母様の面影はお屋敷からは消えてしまった。それと共に、お父様の視線は私から瑛理香へと移り、瑛理香を目に見えて可愛がるようになった。瑛理香は私よりも可憐に振る舞い、お父様の心を掴んで行った。気付けばお父様の私を見る目には失望が浮かぶようになっていた。ズカズカと入り込んで来た二人は、いつしかお母様が座っ
及川は私を見つめ、頷く。「お嬢様、生き延びてください。それもあなたのお母様の最後の願いなのですから」そう言われて私はポロポロ落ちる涙を拭い、聞く。「私は、何をすれば?」及川が簡潔に言う。「時間がありません。今すぐにお嬢様のお召しになっている服とネックレスを外して頂けますか」及川はそう言って自分の足元にある遺体袋を見る。「この遺体にお嬢様の服を着せ、ネックレスをつけさせます。そうすればお嬢様は死んだ事になり、万が一にも生きている事が知られたとしても、その時にはお嬢様はここから遠い地へ離れている事でしょう」及川は私に紙袋を渡す。「着替えは中に」その紙袋を受け取る。漆黒のワンピースに着替え、ネックレスを外し、及川に渡す。このネックレスは私にとって特別だったものだ。けれど今はもう、その未練さえ、断ち切る覚悟が決まっている。及川はそれを受け取り、遺体袋に近付く。「お嬢様はご覧にならない方がよろしいかと」及川にそう言われて私は視線を外す。不意に私たちが居る部屋から離れた場所から衣擦れの音が聞こえる。「お嬢様、急ぎましょう!」及川の声は張り詰めている。及川は私の腕を掴むと、引っ張り歩き出す。その足取りが徐々に早くなる。私の身体は痛みで悲鳴を上げていた。それでもそれを必死で堪え、よろめきながら及川の急ぎ足の歩調に合わせる。ほとんど引き摺られるようにして廊下を抜ける。施設を出たその瞬間 ――ドオオーーーンっ!!!背後で爆発音がして爆風を浴びる。次の瞬間には灼熱の衝撃波が破片を巻き上げ、背中から私たちに襲い掛かる。私は本能的に身を伏せ、及川がそんな私を庇ってくれる。数歩前へ、この衝撃波と灼熱から逃げる為に、また一歩前へ、駆け出す。振り返る。建物全体が既に烈火の中で。その形を崩している。歪んだ鉄骨と吹き飛ばされ、崩した建物。その建物の全ての窓から、いや、窓だったものからオレンジ色の炎が噴き出し、全てを煉火が飲み込んで行く。◇◇◇「何だと?!」知らせを聞いた私は椅子から立ち上がる。「それは本当か?」そう聞くと知らせを持って来た者が言う。「間違いありません」そう言ってタブレットを差し出す。そこに映されたのは燃え上がるあの施設。「行くぞ!」そう言って慌てて屋敷を出る。辿り着いた先は私設療養所。炎は最初程の勢いは無くなったのか、パ